しるし【戦雲-いくさふむ-】感想!

2024年8月31日、trunk主催の映画『戦雲-いくさふむ-』上映会を行いました。企画した堀内しるしの感想文のようなテキストです。あまりネタバレしていない……ような気がします。

多少の犠牲

「多少の犠牲はしょうがないさ、の多少の中に私たちがいるよね」

予告編でも使われている楚南有香子さんが自衛隊基地に向かってトラメガで訴える場面。この言葉を上映会前にYouTube(私が毎週配信している)のなかでも紹介したのだけれど、実際に口にすると何ともいえない、胸に黒い渦が巻くような気持ちになる。小声でいいので、この文を読んでいる方は試しに口に出してみてほしい。多少の犠牲はしょうがないさ、の多少の中に私たちがいるよね。……恥ずかしい話、私の場合ただ口にしただけなのに声が震えてしまった。

自分の娘が横にいる状況で、この言葉を発する楚南さんの心境を思うとほんとうに言葉がない。これは必要なことなんだから我慢しろ、決まったことなのだから諦めろというメッセージをこの国は沖縄に放ち続けている。別の場面でも言及されていたが、同様の言葉を戦争経験者である島の年長者に言わせる、言わせないまでも思わせるなんて以ての外だと思う。

今回、午前と午後で2回の上映を行った。
主催側の役得で立て続けに観ることができたのだが、通しで鑑賞したあとでこのシーンを改めて観ると、また別の意味も浮かび上がってくるように感じた。

「多少の犠牲」のなかには沖縄の人々だけでなく、自衛隊員も含まれている。

住民を巻き込んだ激烈な地上戦の戦場となったこの場所を再び戦場にしたくない。この場所から別の戦地へと赴く人間も出したくない。それは自衛隊員、さらには米軍兵へと向けられているはずで、映画全体が訴えているメッセージだと思う。

そして、いうまでもなく戦争を始める人間は間違いなく「多少」には含まれない。
「戦う覚悟」と勇ましいことをのたまう麻生太郎も、大軍拡を決めた現政権の政治家の誰一人として含まれない。

ふざけるな、以外に私たちはどんな言葉を吐けばいいだろう?




界隈の人たち


「あの界隈の人たち」

という言葉をやたらと使う議員がいる。私の暮らす秋田県の話だ。
X上で他党やその支持者を熱心に叩き、おそらく社会活動家を含む「自分と異なる政治的思想を持つ誰か」を指してそう呼ぶ。

優れたドキュメンタリー作品を観れば、人間というものがどれだけ多面的で、常にゆらいでいる存在なのかがわかる。川田のオジィの発言がシーンによって違うのは、思想に一貫性がないからではない。その時々で変わっていく現状を理解して、自分自身と向き直って正直に考えているからに他ならない。自衛隊は良い人たち、でも、この土地には不要かもしれない、でも……と逡巡する。誰だってそうだと思う。2016年からカメラを回し続けていれば、むしろ考え方が変わらない方が難しい。

誰もがわかっている通り、人はそんなに単純じゃない。

山里節子さんの訴えを銃を携えたまま無表情で聞くのも自衛隊員だが、地域行事に参加して「やっと一員になれた」と涙をこぼすのも同じ自衛隊員だ。たかが肩書き、立場だけでその人物のすべてがわかるはずもない。逆にいえば、「あの界隈」と呼ぶ人は、そうして一括りにする人々の事を「わかりきっている」と思っている(し、その上で蔑んでいる)に違いない。

映画には「あの界隈の人」と呼ばれそうな人がたくさん出てくる。

トラメガで基地に向かって叫ぶ人、港に来た軍艦に、歓迎してません、帰ってくださいと訴える人、座り込み、もしくは地べたに寝転んで抵抗する人。その人たちがどんな想いでそんなことをしているのか、カメラは執拗に追いかける。さらには賛成派や容認派の人の声も拾うし、それこそ行事に参加した自衛隊員の声も聞く。活動家、と呼ばれている人たちがどんなことで笑うのか、ストレスが溜まったらどう発散するのか。自衛隊、と呼ばれている人が何に悩んでいるのか、本当に嬉しい時にどんな表情をするのか。映画には映し出されている。

この映画は、よく知りもしない誰かを「あの界隈」と呼んで済ませることと真逆の行為をしている。





ポレポレから秋田まで

ずいぶん前、【標的の村】【戦場ぬ止み】という作品をポレポレ東中野という映画館で観た。スクリーンに映し出された沖縄の現実……傲慢きわまりない政府のやり口、日常を壊された人々の抵抗、戦争を生き抜いて未だに声を上げなければいけないオバァやオジィたちの姿に涙したのを覚えている。

そして泣きながら、自分自身にツッコミを入れた。「お前にそんな資格ないだろう」と。

一番近い感情でいうなら「悔しい」「申し訳ない」。今回の感想アンケートでも「何も知らなくて申し訳ない」という言葉が多くあった。私自身も(今回も)そうだ。知らなかった、でも知ろうとすれば知れたはず。

そんな人間に泣く資格はないとその時は思った。

……じゃあ、どうすればいいんだろう?

そう考えるところから始まったのだと、いま振り返って思う。
おそらく上映会に来てくれた人は沖縄の基地/自衛隊配備問題の当事者ではないだろう。厳密にいえば当事者に今後なれることもない。もちろん広く捉えれば、この国に生きる人々すべてが当事者といえるだろうが、秋田で暮らす人が現地の人ほど切迫した状況にいるはずもない(沖縄の人たちの気持ちが「わかる」なんて映画を観ればむしろ安易に口にできなくなるだろう)

ただ、今回上映会に来てくれた方々は、今後ニュースを観た時に【戦雲】で観た与那国だ、宮古島だ、という風に感じるはずだ。その時に氷を飲み込んだような、喉がつまるような感覚を覚えたなら、その人の中に既に「他人事ではない」という気持ちが芽生えているんだろうと思うし、そこにこそ希望があると感じている。

あらゆる社会問題にもいえることだと思うけれど、当事者ではない人間が、現地以外の場所から起こせる行動が必ずあると思う。
とりあえず2012年のポレポレ東中野で泣いていた人間は、縁あって2024年に秋田で映画を上映した。……我ながら遅すぎる。他の人なら、もっともっといろんなことができると思う。とってつけたような言葉になるけど、この映画をきっかけに、反戦や沖縄のことについて考えてくれる人が一人でも増えたらうれしい。
何よりイチ映画ファンとしては監督の過去作全てを視聴することを強くお勧めしたい。こんなことを言われても監督はあまり嬉しくないかもしれないけれど、いずれも日本映画史に刻まれる作品だと思っている。




最後に


感想文なんだか自分の思い出話なのかよくわからない上に、まとまりのない文章になってしまった。
最後は三上監督の書いた記事から、下記の言葉を引用して終わりたいと思う。最後まで読んでいただき、有り難うございました。

誰もみな心の中に大事なコップを持っている。たくさんの矛盾を見て、我慢をして、やり過ごしながらも心のコップがいっぱいになってあふれ出す瞬間にその人は動き出すのだと思う。その時に、ずっと現場を繋いできてくれた人たちの存在や蓄積が大事な財産だということに気付くのだ。

第121回:体を張って抵抗する意味~新作『戦雲』の公開と陸自勝連分屯地での抵抗(三上智恵)