【小説】春がずっと続く

 

あなたはカーテンを、とりあえず開ける。

毎朝の習慣として。

何の変哲もない窓外の景色をーーというより、その視線と景色の中間にある広い空間を、あなたは懐かしく眺める。

わざわざ「数値」は計測しない。

それは外出する人間の習慣だから。

あなたの習慣は、まず歯を磨き、髪を梳かし、寝巻きからシャツとジーンズに着替えること。薄緑の作業用エプロンをつけること。

それからホーロー鍋に水をはり、火にかける。沸騰を待つ間、葱と魚肉ソーセージを刻む。大人三人分の死体が収まるサイズの業務用冷凍庫から、冷凍ちゃんぽんを取り出す。時間でいえば既に朝食というより昼食だった。

ちゃんぽんを食べ終えた頃、ルーがのっそりと膝にのぼってくる。

ある日植え込みで拾い、飼い始めた猫である。拾った当時はまだ、あなたは外を出歩いていた。マスクさえしていない、まるで無防備な格好で。

ちょうどその2011年が、外出できた最後の年だった。

 

パソコンを立ち上げる。

昨夜、最大音量にして音楽を聴いていたせいで、「ッダーン」という例のすさまじい起動音が室内に響き渡る。ルーが何事かというふうに立ち上がるが、すぐに思い直してまた香箱を組んだ。抗議のような大きな息をつく。

あなたは在宅のデスクワークを始める。

ひと文字5円のテキスト入力のバイトだ。郵送されてきた厚さ三センチ、十束もある手書きの文書をワードに打ち込んでいく。

あなたの手指は正確無比の動きを見せる。肩がリズムを刻むように、わずかに揺れる。

キーパンチの音、ルーの鳴らす喉の音、冷凍庫の稼働音がかろうじて室内から静寂を追い出していた。

昼は缶ビスケットと、ホットコーヒー。

それからまた仕事。

あなたは気まぐれにテレビを点けてみた。飼育小屋で牛たちが射殺されている。すぐに消した。

夜は冷凍ピザと第三のビール。

仕事を終え、クライアントにデータを送信してから、お風呂。

あなたは寝巻きに着替え、iTunesの音量を最大にしてから入念なストレッチをする。アルバム一枚分の時間を使って全身をほぐし、明日のことを考える。のばした足の、その延長線上でルーが腹の毛繕いをしている。

 

あなたはひとつ、くしゃみをする。

それが引き金になって、次々にくしゃみが出る。ルーが飛び退き、玄関まで駆けてゆく。

一日じゅう家にいるからといって、安全というわけでは無いのだ。目に見えないその物質は、宅配物の段ボールにだって張りついている。三月のあの日以来、この国に安全な場所はもはや無い。

あなたはパソコンの電源を落とす。プツ、と呆気ない音。

 

あと少しの辛抱だ。と、あなたは思う。

夏さえくればこっちのものだ。

それとも、まさか、春がずっと続くのだろうか。

 

 

 

 

 

 

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