映画って、何だ。何のことだ/【デビルシャーク】を観た!

映画の地獄、地獄の映画【デビルシャーク】

とんでもない映画があったものだ。

つまらない、という言葉さえこの映画の前では無力だ。

道を歩いていると、目の前からこの映画が向かってくる。
あなたは「つまらない!」と全力で浴びせかける。
石で出来た「つまらない」だ(ドラえもんでスネ夫が自ら叫んで自ら乗る「ギャー!」と同じ)

だが映画はひるまない。避けもしない。
ブォォォン、パラパラパラ…………直前で粉砕される。
あなたは言うしかない。
「ぐぬっ……物理攻撃がきかないとはッ」

効かないんだ。
攻撃を無力化するんだ。
おそろしいよ、デビルシャークは。

まず冒頭から驚かされた。
まったく「映画」に見えないのだ。
かといってテレビドラマにも見えない。
画面の質感のせいだろうか。音楽のせいか。出ている役者が無名だからか。編集のぶつ切り感か。
なんでだ、どういうわけだと考えながら見たから、ただでさえわかりづらいストーリーが余計にわかりにくくなる。

サメは思いっきりCGだ。というかバーチャファイターみたいなポリゴンに近い。
しかも出てくるシーンはすべて同じ映像の繰り返しだ。

役者の演技はもちろん棒だ。
外人の役者の上手いヘタなんて、この映画に出会うまでは気づいたことがなかった。
これはもう、はっきりヘタだ。
流れからして絶対に驚かなきゃいけないシーンで、一人ぼうっと突っ立っていた女。
あれはなんなんだ。監督は撮ったシーンを見直さないのか。
あと血糊も薄い。ありゃあ色水だ。

ただそういうことは、これまで観てきたB級ないしZ級映画にもあった。
「ありゃあ色水」だといったところで、そもそも「血」じゃないのだから。血糊>色水というのもおかしい。


しかし、あきらかにこの映画はそれらに比べて抜群に「映画」に見えない。

ひとつ思い至ったのは、画面が微妙に動いている点だ。
画面が首のすわっていない赤ん坊よろしく、揺れている。思いっきりではなく、微妙に。
それが映像に手作り感というか、ホームビデオ感を醸し出してしまっているのではないか。

また、終盤のクライマックスらしき場面だ。
エクソシストと、デビルシャークにとりつかれた女、その友達が画面に収まる(言い忘れたがこの映画の原題は「ジョーズVSエクソシスト」)

この場面、三者が画面におさまってる。
それはもうぴっちりと、点線が見えるくらいに立っている。

これはなんか、へんだ。

最初は何がへんなのか、わからなかった。
ずっと三人が画面に映っている。なんやかんやのやりとりはあるんだけど、とにかくずっとカメラに対して正面だ。
そして思い至った。映画のなかでは登場人物三人がずっと正面で揃っているなんて場面、滅多に見ない。

それはもうアルフィーなんだ。

横イチ


つまり何が言いたいかというと、この【デビルシャーク】は、何が映画を映画たらしめているのかを否応なく考えさせる作品だということだ。

かつて【犬神の悪霊】(監督:伊藤俊也)という映画でも似たようなことを感じた。このときにはいかに「編集」というものが大事なのかを知ることができた。流れにそわない箇所でブツッと場面が切り変わると、それだけで人はつい笑ってしまうものなのだ。そこまでがどれだけおどろおどろしいシーンであっても。
意味がわからないかもしれないが、【犬神の悪霊】を観ればわかってくれると思う。そういう意味で見どころしかない映画になっている。


私たちが映画を観るとき、だいたいは安心してその世界に入っていく。

楽しむ準備ができているし、映画もまた入りやすい玄関口を用意してくれている。

だが、この映画はそうはさせない。

玄関というならもう荒れきっている。
草木がもうもうと生い繁り、ノブは鎖でぐるぐる巻きだし、何なら戸を開けてもゴミで塞がれてる。入りづらいったらないんだ。

現代日本映画の質感、あれは思えば何だろう。

あの、やけに顔の凹凸がくっきりする、色調暗めコントラスト強めの絵。肌の感じがやや土っぽい感じといったらいいか。

テレビドラマが映画化した時には特に気になる。

話の調子だとか出ている役者はドラマのままなのに、絵づらだけ変わる。つまるところあれは雰囲気づくりのためのフィルムっぽい加工でしかないんじゃないか。ドラマから映画という格調の高いジャンルに一段上がりましたよ、という一種の暗示じゃないか。

それじゃあ私たちは、まるで1,800円をあの強めコントラストに支払っているみたいじゃないか。


問題はサメじゃない。

サメじゃないんだ。

そしてこの映画は、映画じゃない。

もっと他の何かだ。

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