I−DA

すてきなショートストーリーが出来ました。

みじかいので、ぜひ読んでみてください。





【I−DA】(あい–だ)


おれたちは逃げた。

とにかく走って、どこまでも行こうと思った。駆け落ち、なんて今どき誰がするんだろうか。

キョウコの手が熱い。おれの手は汗ですべりそうになって、さらに強く握った。

「止まって」

森の中で彼女が言った。

何か返そうと思ったが、すぐには無理だった。体力がもう残っていない。

すっかり日が暮れていた。

キョウコは息ひとつ切れていない。

「私、ここで待つ」

「……なんで。ここならきっと……」

「逃げられないもの。どこまで行ったって無駄」

彼女の視線が、自身の足元に伸びる。流血していた。

サバンナの草原で、腹を空かせたハイエナに噛みつかれたのだ(おれは彼女に肩車されていたから、気づけなかった)それによくみると、左耳がない。海を渡っている時、サメに食いちぎられたのだろう(おれは彼女の引く筏の上にいたからよく見えなかった)

せっかく、ここまできたのに。


「私が、なんとかするから」



悔しかった。ただひたすら凡人である自分が。

あの男は彼女と同様に、超人なのだ。

あの男、などとは本来呼ぶべきではないだろう。

遠く、足音が聞こえる。

足音だけではない。

かすかに声が聞こえる。男の声。

それは次第に大きくなっている。


ぁいだぁいだぁいだ……


「ほら、もう来た……父だわ」


ぁいだぁいだぁいだ……


愛だ、愛だと聞こえるが、実際は違う。

あの男ほど「愛」という単語が似合わないものもそういないだろう。あの体のフォルムは、まるで岩塊の上に温泉卵を乗せたようだ。要するにけだものだった。


何を叫んでいるか、もっと近づいてくればわかる。

それはキョウコの父親の口癖だった。

「来るわ……」

天をも揺らすような地響きが鳴った。と同時に、空に声が覆いかぶさる。

……ぁいだぁいだぁいだきあいだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ気合いだ京子ぉおおお!


父と娘が組み合った。

巻き起こる凄まじい粉塵。亀裂の入る地盤。逃げていく動物たちと雲。

衝撃波によって木々と共にはるか後方へと吹き飛ばされていく。鬱蒼とした森は一瞬にしてひらけた平野に変わった。

そのさなか、おれは見た。

父親は泣いていた。

京子もまた、泣いていた。

おれはふられた。



その日から、その親子はオリンピックを目指しはじめた。

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